70〜90年代には5カ国対抗組を次々に撃破
欧州6番目の評価を受けてきた実力チーム
(文・出村謙知)
6カ国対抗ラグビー。
周知のとおり、ホームネーションと呼ばれるイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドにフランス、イタリアを加えた6カ国によって毎冬争われる欧州が誇る伝統の大会だ。
その名のとおり、現在は6カ国によって争われているが、イタリアが加わることになった2000年より以前は5カ国対抗であり、1947年に再参加したフランスの次に伝統の大会に参加を許されるのは、ルーマニアだろうと言われていた時代が長かったのは歴然とした事実でもある。
元々は、歴史的につながりの深いフランスから20世紀初頭に楕円球文化が持ち込まれたとされるルーマニア。
1919年には最初の国際試合が米国との間で行われた記録が残っている。
また、3カ国しかエントリーしなかった1924年のパリ五輪にも、優勝した米国、開催国のフランスとともに参加している。
第2次対戦後は、国自体が社会主義体制となり、ラグビーにおいても西側諸国との交流が頻繁ではなくなったが、代表チームは時折5カ国対抗組などとの対戦で世界を驚かせた。
唯一、定期的に交流を続けたフランスに対しては、1960〜70年代に2度(60年、74年)勝利を収め、1979年には当時欧州最強チームだったウェールズに対して12-13と大善戦している。
そして、1980年代こそがルーマニアラグビーにとって黄金時代となった。
80年には再度フランスに勝って、アイルランドとも引き分け、82年にまたもフランスを破り、84年には5カ国対抗で全勝優勝していたスコットランドも撃破。さらにウェールズにも84年、88年と勝利を収めるなど、常に5カ国組と対等以上の戦いぶりを見せるようになっていたのだ。
70年代まではルーマニアとの試合をノンキャップとして扱っていたホームネーション国も81年からはフルキャップでのテストマッチとして認めるようになり、当然のように87年に開催された第1回ラグビーワールドカップ(RWC)にも招待され、ジンバブエに対する勝利も記録している。
そんなふうに、80年代に頂点を極めたルーマニアラグビーは他のスポーツ同様、社会主義国特有とも言える国家プロジェクトによって支えられていた面が強かった。
当時の国内強豪チームはいずれもブカレストにあるCSA ステアウアという陸軍のチームとディナモという警察のチームが双璧だった。
そして、栄華を誇っていたルーマニアラグビーは、80年代の終焉とともに下降期を迎える。
80年代最後の年に襲った東欧革命によって、社会主義体制は崩壊。
24年間、権力の座についていた ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻が銃殺されるなど、東欧革命の中でも最も激しい武力衝突流があったルーマニアだが、その過程において、69回ルーマニア代表としてプレーしたFlorica Murariu元主将など、代表クラスのラグビー選手たちも命を落とすという悲劇も起きた。
そんなふうに、他の国とはやや異なる発展を遂げてきたルーマニアラグビー。
1990年にフランス、91年にスコットランドを破るなど90年代初頭は80年代の流れを感じさせる国際舞台での活躍もあったが、次第に財政面で窮地に陥るようになり、以降は世界を驚かせるような結果は残せていない。
それでも、多くのトッププレーヤーは前述とおり歴史的つながりの深いフランスでプレー。
RWCにも全大会出場を続け、04年には6カ国組のイタリアを破り、今年のラグビー・ヨーロッパ・インターナショナル・チャンピオンシップでもジョージアを抑えて優勝するなど、6カ国対抗組を脅かす欧州の強豪というポジションは維持し続けている。
そんな事実からいっても、先日のプール分け抽選によってRWC2019で日本と同じA組入りが決まった「欧州第1代表」候補最右翼と言えるのがルーマニアでもある。